2019年03月24日
居﨑圭ピアノ・リサイタル(3/24・江﨑ホール)
居﨑さんの音は、常にコントロールされる、むやみに放射されない、私は、彼が作品(作曲家)と向き合い、紡ぎだす、一つひとつの音を、高い共感性を持って受け入れる。演奏家の「音」と「人柄」はイコールだ。音楽が進むなかで、思いがけないことが起きたとしても、それも居﨑さんの音楽なのだと納得できる安心感もある。
モーツァルトを居﨑さんが弾く、というのは、なぜか意外で入り込めないでいると、作品の自由な、ユーモアでさえある内容と、居﨑さんの佇まい(私だけの)のギャップがおもしろく、モーツァルトと居﨑さんの会話を距離をもって聴いているような楽しさがあった。きっと思うとおりにならなかった場面もあったのではと思うけど、それも人と人との対話であるとするなら、(第三者としては)愉しい。あくまで私だけの印象だと思うけれど。ドビュッシーは、思いのほか、情感豊か。私の好みとは少し異なるけれど、その演奏の説得力に、個人的な嗜好はどうでもよくなってしまった。第1部はここで終了。居﨑さんに現在の立ち位置をしっかりと見せていただいた。第2部は、武満編のゴールデン・スランバーと、シューベルト。このブロックに居﨑さんの美質が集約されていたのかもしれない。作曲家(作品)よりもピアニストを感じるというのも良いものだと(私にしてはめずらしく)思った。
最終のシューベルトD760は冒頭でシンフォニーだと、思わせた。それほど詳しくないので的外れかもしれないけれど、作曲家の、この作品に込めた、並々ならぬ想いを、演奏家が受け止め、音楽としてこの世に再現するという作業の尊さと喜びを共有したような気がした。
アンコールはドビュッシー「亜麻色の髪の乙女」、こちらは思ったよりも直截な表現だったかもしれない。心が穏やかに静まり、心地よく会場を後にすることができた。
次は、7月14日(日)焼津文化会館で2台ピアノのコンサートに出演されるとプログラムに記載がある。モーツァルト、ルトスワフスキ、ドビュッシーという、とても楽しみなプログラム。


モーツァルトを居﨑さんが弾く、というのは、なぜか意外で入り込めないでいると、作品の自由な、ユーモアでさえある内容と、居﨑さんの佇まい(私だけの)のギャップがおもしろく、モーツァルトと居﨑さんの会話を距離をもって聴いているような楽しさがあった。きっと思うとおりにならなかった場面もあったのではと思うけど、それも人と人との対話であるとするなら、(第三者としては)愉しい。あくまで私だけの印象だと思うけれど。ドビュッシーは、思いのほか、情感豊か。私の好みとは少し異なるけれど、その演奏の説得力に、個人的な嗜好はどうでもよくなってしまった。第1部はここで終了。居﨑さんに現在の立ち位置をしっかりと見せていただいた。第2部は、武満編のゴールデン・スランバーと、シューベルト。このブロックに居﨑さんの美質が集約されていたのかもしれない。作曲家(作品)よりもピアニストを感じるというのも良いものだと(私にしてはめずらしく)思った。
最終のシューベルトD760は冒頭でシンフォニーだと、思わせた。それほど詳しくないので的外れかもしれないけれど、作曲家の、この作品に込めた、並々ならぬ想いを、演奏家が受け止め、音楽としてこの世に再現するという作業の尊さと喜びを共有したような気がした。
アンコールはドビュッシー「亜麻色の髪の乙女」、こちらは思ったよりも直截な表現だったかもしれない。心が穏やかに静まり、心地よく会場を後にすることができた。
次は、7月14日(日)焼津文化会館で2台ピアノのコンサートに出演されるとプログラムに記載がある。モーツァルト、ルトスワフスキ、ドビュッシーという、とても楽しみなプログラム。

